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東京高等裁判所 昭和52年(ネ)1638号 判決

控訴人(附帯被控訴人) 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 土屋豊

同 横山勝彦

同 増田修

被控訴人(附帯控訴人) 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 大河内躬恒

主文

一  原判決を取り消す。

二  控訴人(附帯被控訴人)と被控訴人(附帯控訴人)とを離婚する。

三  控訴人(附帯被控訴人)、被控訴人(附帯控訴人)間の長女花代(昭和四三年五月二〇日生)の親権者を控訴人(附帯被控訴人)と定める。

四  控訴人(附帯被控訴人)は被控訴人(附帯控訴人)に対し金一〇〇〇万円及びこれに対する本判決確定の日の翌日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

五  被控訴人(附帯控訴人)のその余の請求を棄却する。

六  訴訟費用は第一、二審を通じてこれを二分し、その一を控訴人(附帯被控訴人)の負担とし、その余を被控訴人(附帯控訴人)の負担とする。

事実

第一申立

一  控訴事件

1  控訴人(附帯被控訴人、以下単に「控訴人」という。)

(一) 主文一項ないし三項同旨。

(二) 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人(附帯控訴人、以下単に「被控訴人」という。)の負担とする。

2  被控訴人

本件控訴を棄却する。

二  附帯控訴事件

1  被控訴人

(一) 控訴人は被控訴人に対し金一八一四万三〇〇〇円及びこれに対する本判決確定の日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

(二) 附帯控訴費用は控訴人の負担とする。

2  控訴人

本件附帯控訴にかかる請求を棄却する。

第二主張、証拠

当事者双方の主張及び証拠は、次のとおり付加、訂正するほかは、原判決事実摘示と同一であるから、その記載を引用する。

一  控訴人の主張

1  原判決三枚目表二行目「現在」を削り、三行目「役職にある。」を「役職にあった。」と改め、五行目「頻繁である。」を「頻繁であった。その後、昭和五二年九月○○○○○○株式会社を設立して現在代表取締役社長である。」と改める。

2  同三枚目裏一〇行目「心因性精神病」を「精神病」と改める。

3  同八枚目裏八行目「昭和四七年五月」を「昭和四八年五月」と改める。

4  同九枚目表一行目「昭和四七年三月」を「昭和四八年三月」と改める。

5  同九枚目裏三行目から五行目にかけての「昭和五一年八月ころ一身上の理由で帰郷するといって交際を絶って以来消息は不明である。」を「丙川と同居するようになったのは、控訴人、被控訴人間の婚姻生活が破綻した後であり、昭和五二年暮以降のことである。」と改める。

6  被控訴人の場合は性格がらみの分裂病であって、その発病の引金は結婚である。すなわち、被控訴人は被愛妄想性格、非現実的受動性格で、未熟な性格であるため、母の許から離れたことが一番の原因である。

被控訴人は自己中心的、享楽的な生活観を抱き、結婚当初から夫と協力して家庭を築こうとする意思も能力もなく、料理、洗濯、掃除などの日常家事ができず、控訴人の両親や他人との交際をも嫌い、気ままに自己の好むところにのみ夢中になり、家政を担う妻としての自覚と生活態度を欠いていた。控訴人が被控訴人に人並みの主婦としての素養を身につけ、人付合いをし、家事を全うしてくれるように願うことは当然であるが、被控訴人は控訴人の求めに反発するだけで、結婚前の甘やかされた生活態度に固執した。控訴人は、被控訴人が発病した後も、分裂病と知らされていなかったので、被控訴人が母親の精神的支配から脱し、一人前の大人としての人格を持つよう励まして、毎日のようにアメリカから被控訴人に手紙を出したのである。

控訴人と被控訴人の婚姻が破綻するに至った原因は、前記のような被控訴人の生活観、生活態度に起因するもので、控訴人こそ有責配偶者である。被控訴人が精神分裂病に罹患したこともまた婚姻破綻の原因となっているが、控訴人は被控訴人の分裂病罹患について責任はなく、その原因は被控訴人側にある。

7  控訴人は被控訴人の入院費を負担する意思を有するが、被控訴人に対し財産分与、慰藉料として被控訴人主張の金員の支払義務があることは争う。

二  被控訴人の主張(附帯控訴に基づく予備的請求)

1  すでに原審において主張したように、控訴人は、仕事の上では有能であるが、そのためか、被控訴人の家事、書く文字、化粧の仕方に至るまで批判し、これを直すよう強く要求し、それができないなら「離婚する」と言って威圧的態度でのぞみ、思いやりを示そうとはせず、被控訴人は、離婚されることをおそれ、焦躁し、ついに挫折して不安感、劣等感を抱くようになり、ニューヨークにおける異常な生活とあいまって、発病するに至ったものである。控訴人は、被控訴人発病後その回復、再発防止のため必要な協力をせず、昭和四八年五月ごろ退院を準備している被控訴人に対し、一方的に離婚を宣言して同年六月五日肩書住所(ただし当時は二九―五一五号)に移転し丙川春子と同居したもので、夫として当然なすべき妻への配慮を放棄し、控訴人のわがままだけで、被控訴人との婚姻関係から離脱した。

2  控訴人は昭和三五年東京大学を卒業して日興証券に入社し、同三八年社命で米国に留学し、コロンビヤ大学ビジネススクールに入学したが、間もなく同社を退職し、被控訴人の父母から援助を受けるかたわらアルバイトをして昭和四二年同大学を卒業し、同年一〇月帰国し、日本コンサルタントに入社し、同四六年二月同社を退職し、ワーナーランバートに入社して日本支社長となり、翌四七年二月同社を退社してシステムインターナショナルに入社し、役員を経て副社長に昇進したが、やがて独立して○○○○○○株式会社を設立して代表取締役となり、かたわら九州福岡にある大学の講師を兼ね、月収は五〇万円を下らない。

被控訴人は昭和一三年一月二九日福岡市内で内科小児科医院を経営していた父乙山竹夫と母乙山竹子の二女として生れ、経済的にも恵まれ、皆に可愛がられ、学校の成績もよく、昭和三五年東京女子美術大学を卒業した。

被控訴人は、現在陽和病院に入院中であるが、昭和五四年九月一日から同五五年七月三一日までの入院医療費、室代差額、暖房費の合計額は七八万九七六〇円で、一月当たり七万一七九六円の割合である。しかもその他衣服費、小物費、小遣等として月二万円ないし三万円を要する。

被控訴人の父乙山竹夫は、昭和四九年一月往診の途中横転し、頸髄損傷のため四肢完全麻痺の状態であり、現在被控訴人の弟が久留米医科大学を卒業して父の跡を継いでいる。

また、被控訴人の母竹子は、昭和二五年ないし二七年ころカリエス及び肺結核を患い、右肩関節固定及び肋骨七本を切除した身体障害者であるが、更に昭和五四年初左手首を骨折して、現在でも自分の用を足すにも不十分の状態である。

3  控訴人の本件離婚請求は、有責当事者の離婚請求であって、棄却すべきものであるが、仮に認容されるとするならば、前記各事実、その他一切の事情を考慮し、被控訴人は控訴人に対し財産分与及び慰藉料として、

(1) 夫婦財産の清算金五五〇万円

(2) 離婚後の扶養費金八六四万三〇〇〇円

(3) 離婚による慰藉料金四〇〇万円

以上合計一八一四万三〇〇〇円及びこれに対する本判決確定の日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

三  証拠《省略》

理由

一  《証拠省略》を総合すれば、当審における被控訴人主張2の事実及び控訴人は昭和八年一二月二九日生れ、被控訴人は昭和一三年一月二九日生れで、控訴人、被控訴人間に昭和四三年五月二〇日長女花代が出生し、現在控訴人がその監護養育に当っている事実を認めることができる。

二  《証拠省略》を総合すると、次の事実を認めることができる。

1  被控訴人は甘やかされたお嬢さん育ちというタイプで、未熟、孤独、非現実的、自己中心的性格であって、個性が強く、炊事、洗濯、掃除などの家事は極めて不得手で、交際嫌いであり、通常の家庭の主婦となるには、多くの問題をはらんでいた。

2  控訴人と被控訴人は、控訴人が東京大学、被控訴人が東京女子美術大学各四年に在学中にダンスパーティーで知り合い、共に郷里が福岡であることから、交際するようになった。被控訴人は、大学の休みごとに帰宅したが、画を描いていれば食事を部屋に運んで貰い、掃除、洗濯等一切は手伝いにして貰った。被控訴人が結婚前控訴人に出したものと認められる《証拠省略》の手紙によれば、日付の記載がなく、考えたままのことを大きな乱雑な字で書きなぐり、幼稚、異様な絵が付けられている。控訴人は、大学卒業後日興証券福岡支店に勤務し、昭和三六年秋に被控訴人と婚約することとし、同年一〇月ごろ被控訴人の父(養父)甲野松夫が被控訴人の父乙山竹夫宅へ結納を届けに行き、被控訴人に「息子のことをよろしく頼みます。」と言ったところ、被控訴人は「あなたの息子の犠牲になる気はない。」と言って席を立ってしまい、被控訴人の母乙山竹子が連れ戻した。結婚式の前日、控訴人が控訴人の母甲野松子からの被控訴人への届け物を風呂敷に包んで持って被控訴人を訪れ、被控訴人とその母が玄関口へ出迎えたので、被控訴人に対し「母からの贈り物だよ。」と言ってこれを差し出し、玄関の間に置いたところ、被控訴人はその風呂敷包みを足でけり、「こんなきたないものはいらん。持って帰れ。」と言った。控訴人が「何をするのだ。」と言うと、被控訴人は「お前と結婚するのはやめた。」と言い、控訴人が「ああ結構。おれのお袋からの贈り物を足げにする女と結婚する気はない。」と言って帰りかけると、被控訴人の母が驚いて走って降りてきて、控訴人に「申訳ありません。本人はたかぶっておりますので、本意ではありませんから。こんどだけは許してやってください。」と言って訴え、控訴人は結婚式のために日興証券福岡支店長に仲人を依頼しており、双方の親戚も遠くから福岡に来てくれていることであり、また、東京の友人も出席してくれることになっていたので、ここで我慢すれば将来被控訴人が徐々に変わってくれるであろうと思い、一晩考え悩んだあとで、結婚することにきめた。被控訴人はクリスチャンではないが、ミッションスクールを出ていたので、教会で、しかも二人だけで挙式することを主張し、一人だけは証人が必要であるという牧師の指示で、控訴人の母のみが立会人として参加して昭和三六年一二月五日挙式した。新婚旅行は、当時まだ旅券が必要であった沖縄に行き、現地で控訴人が被控訴人に〇・四一カラットのダイヤの指輪を買い与えたところ、被控訴人は、ホテルに帰るや、その指輪を放り投げ、「こげな小さいダイヤは恥かしうてはめられん。貧乏人のあんたが嫌になった。福岡に帰ったらすぐ離婚ばしよう。」と言い、その夜は互にののしり合って別の布団に寝たが、夜中に被控訴人は「自分が悪かった。離婚はしたくない。」と言ってあやまり、再びその指輪をはめた。控訴人及び被控訴人は、昭和三七年一月一二日婚姻届をした。

3  結婚後の新居は、被控訴人が絵を描くのに大きな部屋がいるというので、控訴人は無理をして家賃月七〇〇〇円で一戸建の家を借りた。当時控訴人の給料は月一万七〇〇〇円で、残業手当を加えて月三万円位の収入であった。被控訴人は大きなものは一〇〇号を超えるカンバスを使用し、部屋中がカンバス、絵具等の置場となり、寝室が一つやっととれた。控訴人が家賃が高いので家計を切り詰めるように相談すると、被控訴人は「いるものは仕方がない。自分の友達は女中付きで楽に暮している。」「ああ、貧乏人と一緒になって損をした。馬鹿らしかった。」といい、家計簿はつけず、不足すると実家へ行って無心し、控訴人が生活態度を変えるように頼んでも、応じなかった。被控訴人は昼間は余り絵も描かず、映画や、パチンコ、喫茶店などに行き一日中ぶらぶらし、夕食はつくらず、夕方近く会社に居る控訴人に電話して喫茶店やレストランに寄るように言い、外食をした。控訴人が外食は金もかかるし、栄養のバランスも悪いから自宅で食べたいというと、被控訴人は「作りたくない。女中を雇って作らせばいい。」と答え、また、控訴人が「会社の人が来たがっているから呼びたい。」と言うと、被控訴人は「私は外へ行っているからその間に呼べばいい。」「他人に自分の絵を見られるとアイディアを盗まれるから、だれも入れさせない。」「支店で働いている連中は将来何の役にも立たない人間だから、時間を使うのは無駄だ。」等と言って、これに応じなかった。控訴人は会社の同僚に「女房は病気勝ちで」と言って言訳をした。控訴人が被控訴人の母に生活の改善について相談したところ、被控訴人の母は「本人が絵を描く時間が足りないというのだから、仕出屋から弁当を取るよう頼んであげましょう。」と言い、控訴人はこれを拒った。

被控訴人は、結婚式後初めて控訴人の両親の家に行ったが、「こんなきたないところであなたの両親みたいなものの顔をみたくない。さようなら。」と言って帰って仕舞った。なお、被控訴人は、控訴人の父を、自分がいたずらされた男に似ていると言って、こわがり、会いたがらなかった。

4  昭和三八年に日興証券で社内から留学の希望者を募り、控訴人は、この試験に通って二年間の留学生生活を終えれば、海外支店勤務の駐在員となり、収入が飛躍的にふえ、しょっちゅう「貧乏人と一緒になって馬鹿をみた。」と言っている被控訴人も良い妻になってくれるものと考え、そのために勉強に励んだ。なお、当時日興証券では、留学生に対して、家族の同伴を認めず、留学費と別に、給料相当額が留守家族に支給される制度になっていた。

被控訴人は「あんたのような馬鹿が合格するものか。」と言っていたが、控訴人が合格すると、一緒に行くと言い出し、控訴人が家族同伴が認められない制度を説明し、せめて六か月待つように説得したが、「自分の金で行くのだから一緒に行く。」と言い張って聴かず、一緒に連れて行かなければ控訴人の友人の作家と一緒に寝てやると言って脅迫し、控訴人はやむなく会社にはだまって被控訴人を自費留学生として同伴することにした。被控訴人の両親はその費用を負担することを承諾した。ところが、被控訴人は、被控訴人の希望で控訴人がかねて買い与えていた白いマルチーズ犬を連れて渡米すると言い張って聴かず、控訴人は被控訴人の母にやめるように言って下さいと頼んだが、被控訴人の母は「本人があれほど可愛がっているのだからいいじゃないですか。」と言って相手にしなかった。

控訴人及び被控訴人は、昭和三八年夏ニューヨークに着き、一応割安のホテルに長期滞在し、被控訴人が絵を描くために直射日光のはいらないスタジオ式アパートを借りたいというので、市内を物色していた。

そのころ、日興証券が家族に対する給料振込先を聞くため被控訴人の福岡の実家に連絡したところ、実家の方で「本人は主人と一緒にニューヨークに行っております。」と答えたため、本社では、役員会で説明を求めるため日興証券のニューヨーク支店長に出頭を命じ、事実が判明したので控訴人の留学を取り消し、本店の事業法人部に転勤を命じ、控訴人に対し被控訴人と共に帰国することを命じた。なお、二人一緒に帰国すれば、二人分の旅費を支給し、違反の点はみのがすということであった。控訴人がホテルに帰ってこの事を被控訴人に伝えて一緒に帰国するように促すと、被控訴人は「お前なんか会社に必要じゃないから帰れと言うのだ。自分はあんたの会社とは関係ないからニューヨークに残る。」と言って帰国を承知しなかった。

そこで、控訴人は日興証券を退社する決意をし、控訴人の父に話して田畑を売却して貰い、その資金で日興証券に返済し、アルバイトをしてコロンビヤ大学における学業(経営学)を続けることとした。夜間のアルバイトの口を探すことは容易でなかったが、被控訴人は、控訴人の苦労を理解せず、仕事を見つけるのに時間がかかりすぎると言って罵倒した。

控訴人は、被控訴人の希望による、絵具がまだらに乾かないための直射日光の射さない、しかも広い部屋のあるスタジオ風アパートを探した結果、ニューヨークの中心部であるマンハッタン五七番街にあるマンションの五階に月額一〇五ドルの家賃で、約三〇畳の板の間の付いたアパートを借りることができ、被控訴人は「これで仕事もうまくできる。」と言って喜んだ。被控訴人は、絵の学校に在籍していたが、毎日定期的に通うでもなく、犬を連れてセントラルパークを散歩したり、家にこもって雑誌の切り抜きをしたりしていた。犬を連れているのでスーパーや喫茶店への入店を拒否されたことがあり、アパートの床には新聞紙を敷いていた。控訴人は銀行で夜間の働き口を見つけることができた。

控訴人は、経済的に苦しかったが、被控訴人の希望で、被控訴人を連れてアメリカ各地を旅行した。

5  昭和三九年暮ごろ、被控訴人は、よくアパートの管理人や、アパートの電話交換手(ユダヤ系の老婦人)と喧嘩し、ユダヤ人が危害を加えるのではないかと言っておびえ、「今外に出るとユダヤ人に殺されてしまう。」と言って、控訴人の外出をとめようとしたりした。そして、昭和四〇年二月ごろ佐藤首相に宛て、控訴人や被控訴人がユダヤ人に殺されるからたすけてほしいときたない字で書いた葉書を出し、外務省で調べて被控訴人の居所をつきとめ、ニューヨークの日本総領事館から控訴人に連絡があり、総領事と控訴人が相談した結果、強度のノイローゼであるから帰国させる必要があるということになり、被控訴人の母が病気だから帰ってあげなくてはという話を作り上げ、必ずニューヨークへ呼び戻すという約束をして、昭和四〇年三月ごろ被控訴人を福岡へ帰国させた。

被控訴人の両親は、福岡に帰ってきた被控訴人を昭和四〇年三月二六日佐賀県にある国立肥前療養所(精神病院)で診察を受けさせ、妄想気分、関係妄想があり、精神分裂病様の症状と診断され、即日入院させた。控訴人は、同病院に被控訴人が入院したことは知らされたが、それが精神科のみの病院であること、被控訴人が精神分裂病様症状であることは知らされなかった。被控訴人は、控訴人宛に、ここの医者は何もしてくれないのに出して貰えない、早く病院から出てニューヨークに行きたいという趣旨の手紙を書いた。

控訴人は被控訴人に対し度々手紙を書き、「字がきたない女はいらない。」、「本年九月以降夫婦と思わないでくれ。」(昭和四〇年六月一八日付)、「手紙に日付を入れないと離婚だ。」、「当然一緒に行くべき場合あんた一人でいきななどというと叩き出す。」等と強い言葉を使用したが、一方では自己の近況を知らせ、「決して離婚したり叩き出したり別居したりしないことを誓約する。」「早く来い。」等間接に愛情を告白した手紙も書き、控訴人としては、控訴人なりに、なんとかして被控訴人にその母親の影響力から脱却し一人前の社会人として通用する家庭的な女性になって貰おうとして、懸命の努力をした。

昭和四一年八月一〇日被控訴人は症状が軽快し国立肥前療養所を退院し、同年一〇月ごろ、控訴人は被控訴人の希望をかなえるため、被控訴人をニューヨークに呼んだ。昭和四二年秋控訴人が被控訴人とヨーロッパ経由で帰国する際は、被控訴人はほとんど正常であり、ただ、途中吐いたりしたことから、被控訴人が妊娠していたことが判明した。

6  控訴人は被控訴人と共に昭和四二年一〇月末帰国し、東京都文京区小石川の竹早マンションに居を構え、日本コンサルタントグループに入社したが、最初半年間養成学校にはいらなければならず、その間の給料は月額五万円足らずであり、ただし、昭和四三年三月まで我慢すれば手取りが月額一〇万円を超えるようになる予定であったので、被控訴人にその旨を説明したが、被控訴人は再び控訴人を馬鹿呼ばわりするようになり、「この貧乏人めが。」「お前のような貧乏人の子供は生まん。」などといった。控訴人は以上のような被控訴人の態度から被控訴人と夫婦として共同生活をする意思を失ない、その頃上京した被控訴人の母を交え、離婚について協議し、被控訴人も「控訴人と一緒にやってゆく気がない。」といい、被控訴人の母が産婦人科へ被控訴人を連れて行ったところ、堕胎できない大きさになっており、無理をすると母親の命が危険であると診断され、その結果、生れてくる子のため二人とも考え直して頑張ってみるという結論になった。その後被控訴人は出産のため福岡の実家に帰ったが、被控訴人は控訴人に時々怒鳴るような調子で「女中や看護婦が自分に意地悪するから殴ってやった。」あるいは「蹴ってやった。」と言って電話で報告した。

7  被控訴人は、昭和四三年五月二〇日長女花代を分娩し、同年七月頃花代を連れて小石川に戻ってきた。控訴人は、今度こそは子供を中心にした平和な家庭生活が送れるものと期待したが、右期待は裏切られた。被控訴人は、哺乳瓶の消毒をせず、缶入ミルクがなくなりかけても買いに行かず、定期的にミルクを与えることをせず、花代が泣き続けるので、管理人の妻が心配してきてくれると、怒鳴り返したりした。控訴人は、帰宅後哺乳瓶の消毒、ミルク、食料品等の購入、洗濯、おむつの取りかえ等で、睡眠時間が不足する日が続き、また、外泊を伴う地方出張ができないため、収入が減少した。被控訴人は精神安定剤を飲んで眠っていることが多かった。花代の予防注射には、控訴人が会社を休んで連れて行った。

昭和四三年一二月、控訴人が午後から静岡市内の講演会へ行く予定で午前中自宅にいたところ、被控訴人は大量の精神安定剤を飲んで控訴人のところへきて、「今から死んでやる。お前は今日もう出張できんのだ。会社も馘になる。ざま見ろ。」と言って、その場で倒れて眠り始めた。控訴人は、被控訴人の父乙山竹夫に電話して指示を受けて手当をし、同日午後上京してきた同人の判断で東京都練馬区北大泉の陽和病院(精神病院)に被控訴人を入院させ、静岡の講演会に行き、終了後夜遅く被控訴人の衣類を陽和病院へ運んだ(第一回目の入院)。被控訴人の父は花代を連れて福岡へ帰った。

控訴人は、被控訴人の実家には女手もあり、女中が二人いるので、花代の世話をしてくれているものと思っており、その礼のため正月休みに帰省した際被控訴人の実家を訪問したところ、他家に里子に出されていたので愕然とし、その後交渉して控訴人の両親に引取って貰った。

8  被控訴人は、昭和四四年六月陽和病院を退院し、福岡市の実家に帰ったが、同年九月同市の控訴人の両親の家を訪問する話になったとき、また様子がおかしくなり、控訴人に対し「お前のお袋なんぞに会う気はない。花代を連れてこい。」と怒鳴った。控訴人は、被控訴人の両親の希望で、被控訴人を連れて小石川のマンションに戻ったが、昭和四四年一〇月控訴人の母が被控訴人に花代を会わせるため花代を連れて上京したところ、被控訴人は花代を育てて貰っているお礼を言うどころか、理由もなく控訴人の母を殴り、控訴人に対し「お前のお袋さんの態度が気に入らない。」と言った。そこで、控訴人が「夫婦としてやっていけないから別れた方がいい。」と言うと、被控訴人は「もちろんお前と別れてやるから慰藉料を二億円持ってこい。」といった。控訴人の母は花代を連れて福岡に帰った。

昭和四四年の暮控訴人は被控訴人の病気再発にそなえて埼玉県新座市の被控訴人の父名義の一軒家に移ったけれども、被控訴人は相変らず口ぎたなく控訴人を罵倒していたが、昭和四五年六月、急に帽子会社にパートで働くことにきめたところ、職場で自分の病気のことを噂されていると感じ、即日近くの陽和病院の外来で診察を受けて入院し(第二回目の入院)、同年八月退院した。

昭和四五年九月被控訴人は控訴人の出張中福岡市の控訴人の両親宅に出向き、花代をよこせと言って要求し、控訴人の母を殴った。控訴人の母は、「もう我慢できない。離婚するなら子供を育てるが、離婚しなければ太郎さん、あなたが育てて頂載。」と言った。控訴人が被控訴人の父に被控訴人との離婚を申し出ると、「妹の梅子の縁談がまとまるまで待ってください。まとまったあとで、必ず娘を引きとります。」と答えた。控訴人はやむなく、被控訴人と花代を連れて東京へ帰った。

ところが、控訴人が出張から帰ると花代は腹をすかして倒れており、被控訴人はベッドで眠っているようなことが度々あったので、控訴人は地方出張のない職を探し、外資系の会社である日本ワーナーランバートに支配人の口を紹介され、これに移った。

昭和四七年一〇月、その少し前に結婚式を挙げた被控訴人の妹の梅子が上京してきて自分が離婚した旨を告げ、被控訴人に「花子お姉ちゃまもちゃんとしないと本当に離婚されてしまうよって、お母さんが言っときなさいって。」と言った。それから被控訴人の様子がおかしくなり、控訴人に対し「丁原社長と結婚するのにお前は邪魔だから出て行け。」と口走り、夜中に控訴人を蹴って起し、包丁で切りかかったりした。また、花代の首をひもでしめ始めたので、控訴人が驚いてとめ、ことなきをえた。しかし、危険なので、陽和病院に連絡して鎮静剤を注射して貰い、同病院に入院させた(第三回目の入院)。

9  控訴人は、被控訴人の回復を祈念し、無理をして婚姻維持に努力したが、これに疲れ、被控訴人との共同生活に絶望し、離婚の決意を固め、昭和四七年一二月ごろ、被控訴人の両親に離婚の申出をし、応じて貰えなかったので、昭和四八年五月福岡家庭裁判所に離婚の調停申立をしたところ、被控訴人が精神病者であって調停に適しないとして、同年八月一〇日調停をしない旨の決定があった。控訴人は昭和四八年八月二五日東京家庭裁判所に対し被控訴人に禁治産宣告を求める申立をしたが、同裁判所は、昭和四九年八月二一日被控訴人は心神喪失の状況にあるものとはいえず、かつ、被控訴人の意思判断能力は普通一般人に比べて心神耗弱者とする程度に劣っているとも認められないとし、右申立を却下した。控訴人は昭和四九年九月二三日本訴を提起した。

10  控訴人は、昭和四八年秋ごろ、東京外国語大学イタリヤ語科を卒業し通訳、翻訳、観光案内等の仕事をしていた丙川春子と知り合い、交際をはじめ、昭和四九年夏ごろ同女と肉体関係を生じ、昭和五二年夏ごろから同棲するようになり、同女のことを花代はお母さんと呼んでいる。控訴人は現在に至るまで昭和四八年四、五月分を除き、陽和病院における被控訴人の入院費(月額約八万円)を負担してきており、将来も負担する意思を有している。

11  被控訴人は現在陽和病院に入院していて、退院可能な状態であるが、東京にいることを希望して、入院を続けている。同病院には、昭和四三年一二月から昭和四四年六月まで、昭和四五年六月から同年八月まで、昭和四七年一二月から現在までと三回入院したことになり、第一回目入院した時の病名は精神分裂病であり、幻覚、幻聴、被害妄想があった。現在では軽快しているものの完全には治っておらず、現実離れの傾向があり、現実の夫、娘にはあまり関心がなく、かすかに人格の崩壊が見られるが、意思能力を欠くほどではない。ただ、主体性に乏しく、離婚については母が最後まで頑張れというので、その意見に従っている。被控訴人には、結婚後最初にアメリカに渡航する以前からすでに妄想的破綻が出現している。

以上の事実を認めることができ(る。)《証拠判断省略》

三  右認定の事実及び《証拠省略》によれば、被控訴人は精神分裂病であるが、それが強度であり、かつ、回復の見込がないとは認められないから、民法七七〇条一項四号に該当することを理由とする控訴人の離婚請求は、理由がない。

しかしながら、右一及び二において認定した事実及び《証拠省略》を総合すれば、被控訴人と控訴人の婚姻は遅くとも昭和四四年一〇月頃には破綻するに至ったものというべく、その主たる原因は以上認定したような被控訴人の粗暴で家庭的でない言動にあるものと認められ、また、被控訴人の発病した主たる原因は、被控訴人のお姫様のような未熟な性格及び炊事、掃除、洗濯等をすることなく、何かにつけてよしよしとして甘やかされ気儘に育てられてきた享楽的な家庭環境から一転して我儘のきかない通常の結婚生活にはいったことにあるものと認めるのが相当である。控訴人に対し被控訴人にその母親同様の寛大さをもって接することを求めることは難きを強いるものであって、控訴人が被控訴人に人並みの主婦としての素養を身につけ、人付合いをし、家事を全うしてくれるように頼んだとしても、夫として当然の頼みであったといわなければならない。また、控訴人が離婚を希望してその意思を表明したことが、すでに発病していた被控訴人によくない影響を与えたとしても、控訴人にそのような意思を起させた原因は被控訴人にあって、やむをえないところであり、さらに控訴人が丙川春子と知り合い肉体関係を生じたのは、被控訴人の粗暴で家庭的でない言動により婚姻関係が破綻した後であると認められる。よって、控訴人が婚姻関係破綻の有責当事者であるということはできない。

そうすると、民法七七〇条一項五号所定の婚姻を継続し難い重大な事由があることを理由とする控訴人の離婚請求は、正当として認容すべきである。

そして、前記認定事実によれば、控訴人と被控訴人間の未成年の子である長女花代の親権者は控訴人と定めるのが相当である。

四  被控訴人は、附帯控訴により、控訴人の離婚請求が認容される場合に財産分与等の請求をしているので、判断する。

前記認定の事実、ことに、被控訴人の発病及び婚姻関係破綻の経過、被控訴人は婚姻中格別の婚姻費用の負担をしてはいないが、控訴人は、昭和三八、九年の米国における控訴人、被控訴人の生活費等として被控訴人の父乙山竹夫から約三〇〇万円の援助を受けたこと(《証拠省略》によりこれを認める。)、控訴人は、被控訴人の医療費を昭和四八年四、五月分を除いて負担してきていること、控訴人の現在における社会的地位及び収入、被控訴人の現在の生活状況、控訴人を花代の親権者と定めること、控訴人は被控訴人が将来経済的に困らないように配慮してしかるべきこと、その他一切の事情を斟酌すれば、控訴人の被控訴人に対する財産分与の額は、一〇〇〇万円と定めるのが相当である。なお、右一〇〇〇万円の財産分与中には、いわゆる夫婦財産の清算的要素、扶養料的要素及び慰藉料的要素を含むものであり、控訴人は破綻の有責当事者ではないから、これ以外に被控訴人に対し不法行為上の慰藉料支払義務があるものとは認められない。

そして、財産分与請求権は離婚によって発生するから、控訴人は右一〇〇〇万円に対し本判決確定の日の翌日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を付して支払うべきである。

五  よって、原判決は不当であり、本件控訴は理由があるからこれを取消し、控訴人の離婚請求を認容し、控訴人、被控訴人間の長女花代の親権者を控訴人と定め、被控訴人の附帯控訴にかかる請求は、金一〇〇〇万円及びこれに対する本判決確定の日の翌日から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払を求める限度でこれを認容し、その余の請求を棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、八九条、九二条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 川添萬夫 裁判官 鎌田泰輝 相良甲子彦)

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